”日本版RBG”たちのこれまでと選択的夫婦別姓

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参院選の政策議論の一つである選択的夫婦別姓

7月4日公示の参院選に先立ち、党首討論において女性活躍の一つとして選択的夫婦別姓の是非についての議論がかわされた。経済成長の観点のみならず、男性も女性も含めたすべての人達の人格権などの権利の問題として考えていく必要がある。

選択的夫婦別姓は、2015年の訴訟で一度は棄却されたことは記憶に新しい(判決結果と主文はここから閲覧できる)。

その最高裁の判決において、違憲と述べた裁判官が15人中5人を占め、そのうち3名は女性裁判官であったことも話題を呼んだ。実は、15名のうち、3名の女性判事がいたことは日本では初めての出来事であった。

映画『RBG 最強の85才』と『ビリーブ 未来への大逆転』

ところで、ちょうど時期を同じくして、この春に上映された映画のなかで注目された作品に『RBG 最強の85才』と『ビリーブ 未来への大逆転』がある。

『RBG 最強の85才』はアメリカにおける最高裁判所判事の一人であり、86歳を過ぎた今も現役の判事として活躍しているルース・ベイダー・ギングズバーグ(RBG)本人のドキュメンタリーで、『ビリーブ 未来への大逆転』はRBGの女性弁護士としての初期の活躍を軸に実話をもとにした作品である。

これらの作品を通して感じるのは、彼女の人生とともに歩んできた女性の権利獲得の道のりである。同時に、RBGは映画でも描かれているが、男性の権利獲得のための訴訟にも取り組むなど、あくまですべての人達の権利と平等を築き上げようと尽力してきた人物だということが見て取れる。

現在では、米最高裁判所判事の9名の1人で85歳と最年長で、弁護士時代の男女平等を訴えた様々な訴訟や事件の数々や、判事になってからもトランプ大統領への糾弾含めてリベラルな層に注目が浴び、いまやアメリカで最も尊敬される女性第4位になるほど全米中から尊敬と注目の眼差しを浴びている人物だ。

日本においても、先の選択的夫婦別姓の裁判において違憲判決を出した3名の女性も、女性の働く道筋や登用機会が少ない中、これまで官僚や裁判官、弁護士として活躍してきた方たちばかりだ。

「日本のRBGたち」というと大げさかもしれないが、司法の、しかも最高裁判所判事として活躍するまでにいたったその経歴や考え方、発言について深掘りしてみたい。

女性の労働や雇用と向き合い続けた桜井龍子氏

桜井龍子氏は、日本で3番目に最高裁判所判事になった方だ。

日本初の女性判事は、1994年2月に66歳で就任した高橋久子氏である。高橋氏は最高裁で114人目の裁判官であり、それまで男性裁判官しかいなかった。高橋氏は東大経済学部卒業後、旧労働省へ入省。婦人労働課長や婦人少年局長を歴任し、最高裁判事となる。1997年9月に高橋氏は退官、2001年12月に二人目の横尾和子が60歳の時に最高裁判所判事に就任する。その横尾氏も2008年9月に退官し、横尾氏の後任として桜井氏が61歳で最高裁判所判事に就任、初の戦後生まれの女性裁判官であった。

桜井氏は福岡県大牟田市出身で、九大に進学後旧労働省に入省。当時を振り返ったインタビューではこう答えている。

3年生になると、就職を意識し始めます。親はまもなく定年なのですねをかじれない。けれど当時の民間企業の女子求人はゼロ。本当はマスコミに入りたかったけれど、女子は募集していなかった。それならば弁護士か公務員しか選択肢がない。司法試験と国家公務員の試験を受け、公務員試験の方に合格したので、公務員になりました。
就職するまでは男女差を感じたことはありませんでした。就職先はないけれど、そんなもんだろうと思っていました。労働省では、森山真弓さん(元法相)や赤松良子さん(元文相)といった先輩方と食事をご一緒する機会も多く、いろいろ教えてもらいました。「女性は男性の2倍か3倍働かないと認められませんよ。課長にさえなれないかもしれないわよ」と言われました。私が入った頃はそういう時代だったの。労働省でも女性は婦人局の課長にしかなれない。それさえ、なれるか分からない。
「組織に入ると女性はまだ使われていないんだな」と思いましたが、真正面から「けしからん!」と声を上げるのではなく、まずは自分の実力をつけ、実績を積み重ねていかないと「何で私を男性と同じように処遇しないの」とは言えないと思いました。それからはもう、仕事一筋です。

【話の肖像画】元最高裁判事・桜井龍子(2)「男性の2倍、3倍働かないと認められませんよ」と(産経新聞)

当時、女性のキャリアを毎年採用していたのは労働省のみで、女性の就職においても狭き門であったことが伺える。仕事面においては下駄を履かせてもらうのではなく、自他共に認める実績を積むことによって周囲に認められることの意義についても語っている。

最高裁判事時代、2014年10月には俗に言う「マタハラ訴訟」の判決に関わった。マタハラ訴訟は、妊娠を機に長時間労働の部署から短時間労働の部署に移り、副主任の座を後輩に譲った病院勤務の女性が、出産後に副主任の地位に戻る事を求め起こした裁判で、妊娠をきっかけとした降格は違法で無効とする判断を示した。

現在でも、こうしたマタハラ問題やマミートラックなど出産や妊娠に伴う女性のキャリア問題に悩まされる人は多い。そうした社会的な課題を司法が認めたことによって、マタハラの認知とその深刻さを世の中に知らしめた事案に大きく関わった人物である。桜井氏は2018年1月に定年退官している。

退官後に受けた取材で、いまだ男性優位な裁判官という職業において多くの苦労を重ねたことにも言及している。

「差別を受けた経験があると敏感にならざるを得ない」。退官後、取材に応じた桜井さんは、夫婦同姓規定をめぐる大法廷判決について、「差別を意識したことのない方との間で、判断に差が出た。バランスの取れた結論に女性は不可欠」と強調。現在は裁判官全体の2割が女性だとし、「最高裁判事は少なくとも3人は女性が務めるべきだ」と話した。

「憲法の番人」に初の女性=一時は3人、旧姓使用も-最高裁、平成で実現(時事ドットコムニュース)

男性と女性における認識の違いから判断に差が出てきていることを指摘し、バランスの取れた判断をするために、女性裁判官の積極的な登用など男女におけるバランスの重要性について語る。

労働省時代、女性の雇用問題などに30年間行政官として取り組んできた桜井氏。選択的夫婦別姓について、後述する岡部裁判官による2015年12月の夫婦別姓訴訟の判決意見に同調し、個人の尊厳と両性の本質的な平等が保たれていないことから、憲法24条に違反するものであると言及している。

2015年の別姓訴訟で違憲判決を下し意見を表明した岡部喜代子氏

4人目の女性最高裁判所判事であり、かつ法曹有資格者として初めて最高裁判所判事となったのが岡部喜代子氏だ。岡部氏は、慶應義塾大学を経て司法修習生、判事補に任官。東京家庭裁判所判事を経験、その後一度退官し、1993年に東京弁護士会で弁護士登録。親族法や相続法を専門とし、大学教授、専門職大学院法務研究科教授等を経て、2010年4月に最高裁判所判事に任命された。

岡部氏は、裁判官での経験から「実体法の議論が十分でないことを踏まえ、理論や学説もとに司法研究にするために研究者として活動してきた」という。裁判官としての実務を経験してから研究者として理論を学ぶことの重要性について、以下のように語っている。

「明治民法下で,家族の問題には法律は入らないのだという考え方でずっと来て、その後に家庭裁判所ができて、しかも職権主義ということになっているから、家庭裁判所に任せておけば大丈夫ということになって、実務的な法律論があまり深まっていなかったと思うのです。それでそこのところは打破 しなければいけないと思って、講義とか、演習ではことさらに理論的に授業しました。」

http://www.courts.go.jp/vcms_lf/interview-80.pdf

家族の問題をいかにして実体のものとして取られ、それらをもとに司法の判決や、民法などの現在の法律のあり方がどのようにあるべきかを向き合い続けている。講義を重ねながら理論を積み重ねきた経験はRBGとも通じる部分がある。

2015年12月の判決では、全体意見としては棄却されたものの、岡部氏の個別意見として「近年の女性の社会進出とともに個人の同一性識別のための婚姻前の氏使用が、女性の社会進出の推進、仕事と家庭の両立策などによって婚姻前から継続する社会生活を送る女性が増加するとともにその合理性と必要性が増している」と言及。

昭和60年に日本が批准した「女性に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」に基づいた女性差別撤廃委員会からの夫婦の氏の選択に関する差別的な法規制の撤廃の要請がされていることや、女性が男性の氏へと変更する率が96%であることのデータやこれまでの家制度などにおける男女の不平等さや男女間における事実的な圧力や立場の違いからも、両性の本質的な平等性が担保されていないことを批判している。

通称利用においても「公的な文書で使用できないなど欠陥が多く、通称名と戸籍名との同一性という新たな問題を生み出している」と指摘。さらに「通称使用は婚姻によって変動した氏では当該個人の同一性の識別に支障があることを示す証左である」とし、個人の同一性、つまり人格権を氏名が有していることから、選択的夫婦別姓とともに個人の尊重や両性の本質的平等性を説いている。ここでも、実質的な平等性を男女の間でいかに持つべきかという課題を提示している。また、同判決においても立法府の役割として選択的夫婦別姓について国会審議の必要性を追求している。

岡部喜代子裁判官の反対意見に対して、先の桜井裁判官、後述の鬼丸裁判官も賛同する形となっており、本判決に対し先陣を切って反対意見を述べた一人である。

また、岡部氏はWinny開発者の金子勇氏の最高裁において、Winnyを中立価値のソフトだとした上で「入手者のうち例外的といえない範囲の人が著作権侵害に使う可能性を認容して、提供した場合に限ってほう助に当たる」と初判断を示し、無罪とした大阪高等裁判所判決を支持して上告棄却の裁判長を務めた。岡部氏は2019年2月退官している。

女性のあり方、法との向き合い方を言及する鬼丸かおる氏

5人目の女性最高裁判所判事の鬼丸かおる氏は、司法修習中に出産を経験したことから裁判官任官を断られ弁護士の道へ。山梨弁護士会に弁護士登録し、甲府市のインハウスローヤーとして活躍。その後、東京弁護士会に登録替えし、内閣府国民生活審議会委員、厚生労働省労働保険審査会審査員などを歴任。2013年2月に63歳で最高裁判所判事に就任。彼女の就任により、2013年2月6日から現職の最高裁判所裁判官15名中3名が女性となり、史上初めて最高裁判所の全ての小法廷に女性の判事が各1名ずつ所属する体制になった。

その鬼丸氏の考えを深く知るものとして、日本女性法律家協会のインタビューコメントからいくつか抜粋してみた。

まずは、インタビューで男女の差別を受けたか、という質問に対して以下のようにコメントしている。

裁判官としての待遇が違うとか、女性を理由とする区別があると感じたことはありません。業務内容でも特に差を感ずることはありません。ただ男性には話が通じないと感じる部分はあるように思います。男性とは仕事上では仲良くやっていても、過去の性別役割分担による女性の経験やその影響、感覚の相違は話しても心底から共有はできないと感じます。事件記録を読んでいて、紛争の原因の1つにジェンダーの問題が潜んでいると感じることがありますが、それを男性に理解してもらうのは容易ではないと感じますし、更に表立った結論に示すことはもっと困難です。

http://www.j-wba.com/images2/jwba_no52_p060-069.pdf

当時を振り返るなか、今以上に男性と女性との役割分担や立場の違いが大きかった時代において、前述の桜井氏同様、男性と女性における認識の差を感じていたという。

同時に、女性ならではの感性が最高裁の判決に影響するか、という質問に対して、「女性というより、社会的弱者への理解とか共感の問題」と語り、女性のみならず、社会的に不利益な立場に立たされている人たちへの理解をもとに法律を考えていくべきかが重要であると語っている。

さらに、男女共同参画を掲げる日本において、いまなお”共同参画”が実現できていない現状に対しては、以下のようにコメントしている。

最終的に男女の差は、出産と授乳に限定されると思います。それ以外のことは、男女は同じにやれるはずです。育児を始め、家事責任が女性に重く負わされるのは不合理ですし、育児する幸せを経験しない男性は不幸だと思います。社会の認識を変化させる必要があります。しかし、徐々ではありますが、変化してきていると思います。

同上

男性への育児参加も含めて、すべての人達が子育てや育児に参画する社会によって、初めて共同参画が生まれてると指摘している。

近年のLGBTや性同一性障害などこれまでの法律でカバーしきれていない問題について「本来国会で新たな立法で解決する問題」と指摘。「裁判はあくまで個々の事案解決でしかありません。裁判では立法できませんから、様々な場合を想定して、予め規定を作るのは立法の役割です」と語り、司法のあり方、法律を制定する立法府の重要性について語っている。

インタビュー後半では、女性弁護士や女性法律家のあり方についてもコメント。

今後、家族のあり方や生殖補助医療を巡る法的な問題が加速度的に増加するように思います。そのような分野では、女性法律家が先陣を切って研究することに重要な意義があると思います。 また女性には、出産・授乳あるいはその可能性という男性にはない機能があります。この点だけを保護されれば、それで労働の場における男女の差が完全になくなるというわけにはいかないでしょう。保護の範囲が広がれば、逆差別という批判も当然に出ることでしょうし、この2点のみの保護で良いわけでもありません。本当は育児の負担の方がずっと大きいのです。育児を誰がどのように負担していくか。昔ながらでありながら今日的な問題について、先頭を切って女性法律家協会が、法整備を含め制度設計するなどしていけるようになると素晴らしいですね。

同上

同時に、女性の行き過ぎた保護への懸念にも触れ、ときに逆差別とも捉えかねない事案に対して女性自らも向き合うことの重要性も指摘。

最後に、男性と女性が平等であることにおける女性自身の向き合い方についてもコメント。

(今、女性が下駄をはかされているとすると、将来、下駄がなくなるのが理想だと思うか?という質問に対して)
女性は出産・授乳から免れられない性です。実際に出産・授乳があるかどうかは別として、いつかそうなるかもしれないという可能性だけで差別される状況がありました。その差別を埋めるための下駄ですが、その下駄の歯の高さは経済・社会状況でいかようにも変化する可能性があります。 また出産と授乳はわずかの期間です。その期間を過ぎたら、保護があったことが負の形で跳ね返る可能性があります。保護の期間が終われば、男性と対等に業務をこなすことが要求されるでしょう。 その意味では、保護があって働き続けられた分、女性には厳しい状況が待つことになるかもしれません。下駄がなくなるのが理想とは思いませんが、下駄の歯の高いことに慣れてしまうのも危険だと思います。 今は、女性の「登用」が叫ばれていますが、それが逆差別という声も根強いですし、下駄の歯が低くなったときに、耐えられるような覚悟も女性は常には必要かと思います。現在の下駄の高さは、時代の要求の面があることと、過去の女性先輩の努力の賜だということを忘れてはならないと思います。

同上

鬼丸氏も、2019年3月退官している。

初めて旧姓使用で公的文書に署名する宮崎裕子氏

ここまで紹介した女性裁判官は、まさに日本のこれまでの社会を築いてきた人たちであり、また女性活躍が叫ばれる前から、男女におけるあり方を見つめ、それぞれなりに女性の権利や平等性を獲得してこようとしてきた。

しかし、桜井氏、岡部氏、鬼丸氏と、2015年の別姓訴訟で違憲と判断した裁判官全員はすでに退官しており、現在最高裁判所判事には宮崎裕子裁判官一人となっている。

その宮崎氏は、旧姓利用で公的文書の署名している初めての裁判官で、選択的夫婦別姓における賛成意見を明確に表明している裁判官である。

これまで女性判事は判決などで戸籍上の姓を使っていたが、弁護士業務では依頼者と信頼関係を築くことが重要で「宮崎という名前で仕事を始めた以上、宮崎という名前で仕事を続けていくことは十分合理的な理由がある」と宮崎氏。「人それぞれなので、選択的夫婦別姓であれば問題ないと思う」とした上で、「価値観が多様化する中で可能な限り選択肢を用意することが重要なのではないかと思う」と話した。

最高裁判事就任の宮崎裕子氏「旧姓を最高裁でも使う」(産経新聞)

前述の桜井氏も「内閣では旧姓を通称として使うことが認められていたので、旧姓の「藤井龍子」で仕事をしていました。戸籍名になったので、最高裁判事になったのが私だと気づかない人もいました。ずいぶん不便で困りましたね」と答えており、旧姓使用と戸籍名の使用による困惑を語っている。自身の名前を通じた人格権が、仕事に大きく影響していることは、社会的、経済的にも大きな要因になりうるはずだ。

広がる通称使用/旧姓使用の問題点について

旧姓使用と戸籍名の併用使用は、政治の現場でも旧姓と戸籍名を使い分けることでの困惑も起きてる。2015年10月の初閣議及び閣僚懇談会議事録において、丸川珠代議員の政府代表等への任命行為及び許可等対外的な法律上の行為については,本名(戸籍名)を使用し,それ以外は通称名を使用することことを閣議口頭了解をしたという議事録が残っている。

その後、丸川珠代議員は辞職の場で「署名は(戸籍名の)大塚でするんですか、丸川ですか」と叫んだ、という記述があるように、現場運用における困惑が見て取れる。(参照:丸川珠代大臣が「辞職」の場で叫んだ 署名は「(戸籍名の)大塚でするんですか、丸川ですか(J-cast ニュース)

平成30年5月に各選挙において候補者の数をできるだけ均等にすることを目指す「政治分野における男女共同参画の推進に関する法律」が施行されたことを受け、先の統一地方選挙において多くの女性議員が立候補した。その際にも、立候補名と議員活動の通称名による不一致が問題として挙げられるなど、公文書や当選証書の議員名の不一致がより顕著になってきている。

さらに、法的根拠のない旧姓使用を推し進めることによるコストは、計り知れないことはぜひ知っていただきたい。例えばマイナンバー等における旧姓表記によるシステム改修で100億円もの補正予算が計上されている。また、各市町村で旧姓対応に伴うシステム改修費がかさむ。これらの支出は国庫から捻出され、中野区においては2017年度の一年間だけでも合計で1100万以上を計上しており、単純計算で同額を全国1741の市町村が毎年旧姓併記のシステム改修に使われる可能性がある。

2015年12月の判決においても、通称使用が広まってきていることの合理性を指摘しているが、企業においても雇用する側雇用される側において、戸籍名と旧姓や通称などの2つの指名を管理することでの混乱やコミュニケーションコストは高く、企業が旧姓使用を認めている企業も45.7%しかいない。(参照:2016年3月 旧姓使用の現状と課題に関する調査報告書)。

また、通称使用に関しては、使用を認める側が使用を許可しなければ不可能な事案であり、本来であれば個人の人格権として有しているものを、他者に許可や認可を求めなければ使えないということそのものも自由を阻害しているといえるのではないだろうか。

本人確認など、緊急時や災害時でのリスクも多く、通称そのものの周知をするコストや、法的なものとしての氏名として登録されなければ、いくつもの名前を管理することの困難さは、本人だけでなく周囲や行政、社会においてそのリスクがつきまとい、不安定な社会構成となる。

論文提出や国家資格など、戸籍名や生来の名前によって築き上げた実績やキャリアが崩れることでの社会的経済的損失は大きい。選択的夫婦別姓を認めた国や地域で結婚をすればいいとおっしゃる方も時折いるが、それこそ優秀な人材が海外に流出することによる国力の低下につながり、いわゆる「頭脳流出」を加速させる。女性活躍、女性の就業率、女性の雇用が高まれば高まるほど、よりこうした問題は顕在化してくるといわざるをえない。

先の岡部氏の15年12月判決における意見にもあるように「旧姓使用することで、同一人格を持たせようとすることそのものが、氏と名前の一体によるアイデンティティを形づくっていることを暗にしめしてる」ことであり、通称使用を推し進めようとすればするほど、氏名における人格権を有していることの証拠である。また、通称使用に法的根拠を与えようとすると、そこには新たな問題が浮上してくる。ここまでを踏まえて、それでも経済成長に選択的夫婦別姓が関与しない、というのだろうか。

国会にて論ずるべき問題としての選択的夫婦別姓を私たちで動かしていく

2015年12月の判決でも、旧来の家制度によるあり方をもとにした意見が記述されている箇所が多く観られる(全文はこちらから)。

判決おいて憲法24条の「配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければいけない」と記載されているものの、後半の意見において個人の問題から家族の問題として論点がすり替えられ、旧来から続く家制度が日本に定着してきて、現行の民法化でも家族や社会の自然かつ基礎的な集団単位と捉えられる、という表現をもとに現行の夫婦同姓制度を合憲としている。

こうした判断は、憲法の万人である最高裁は憲法13条が示す「人間社会における価値の根源は個人にある」という個人主義の立場から、これまで触れてきたように人の氏名は「個人の人格の象徴」であることが何度も指摘されているのにもかかわらず、本件の判決では個人よりも家族などの集団を重視し、かつ、家族はこうあるべき、だという枠組み以外を許さない、という判決であると言わざるをえない。

旧民法が規定するような古典的な家族のあり方は、お父さんが仕事をし、お母さんが専業主婦をするというステレオタイプな家族像である。しかし、現在の社会においてそうした家族構成をしている人たちが果たしてどれだけいるだろうか。多世代家族、核家族、子なし共働き夫婦(DINKS)、シングル家庭、ステップファミリー、里子受け入れ家庭など多様な価値観、多様な家族観が広がっている時代において、家族はこうあるべき、という形にはめたもの以外に例外は認めないという司法の判決そのものは、やはり不当なものといわざるをえない。

15名中5名の違憲判決、かつ3名の女性全員が違憲であることを意見し、かつ、男性と女性のバランスにおいていまだ男性優位な裁判官という職種において、どこまで公平に、かつ実社会におけるあり方が考慮されているのだろうか。棄却されたとはいえ、2015年の判決でも「国会で論ぜられ、判断されるべき事柄にほかならない」と記述されているように、本件は国会にてきちんと議論した上でこの選択的夫婦別姓について考えなさいと司法が命じている。国会は選択的夫婦別姓についての議論を進める義務があるはずだ

そして、その立法府に対して意見をいえるのは、有権者である私たちである。女性活躍のみならず、男性も女性もすべての生き生きと働き、生活していくための社会にするために、政治に対して私たちが訴えていくべきことは多い。

映画『ビリーブ 未来への大逆転』に「法は天気に左右されないが、時代の空気には左右される」という名言が登場する。時代の空気が変われば、判例に大きく影響する。そして司法の判例から立法に対して新たな法律策定や法改正へと動き出す。法律が変わる時には、時代はとっくに変わっているのだ。すでに、私たちの多くが望むべきものとして定着してきたものをもとに、ルールメイキングをする社会へと進めていくべきなのだ。