義祖父との出会い、祈りと旅路

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2019年もあけて、二週間ほど経った。2018年は、子供を授かるという人生のなかでも大きな出来事によって、人生のあり方を考えさせられる一年となった。

そんな子供も生まれて5ヶ月ほどになり、よく寝返り、よく笑い、よく泣き、よく寝る日々を過ごしている。小さな子供が、日を増すにつれて、少しづつ成長していることを実感すると同時に、懸命に生きようとする姿に人の生命力を感じさせられる。

2018年に起きた出来事で、もう一つ大きな出来事がある。それは義祖父である。妻の祖父であり、結婚・出産に際し、何度かお会いした。彼は、長年牧師としてつとめあげ、日本における神学の開拓者として知られている。その彼が、子供が生まれた約二週間後、曾孫と入れ替わりであるかのようにこの世から天に召された。

80歳過ぎまでほぼ入院をしたことがないほどの健康体で、亡くなる数年前くらいからガンを患った。自宅で療養し続けた義祖父は、一般的に、病院で亡くなる人が多いなか、病院ではなく、自宅で看取られたいという意思から、最後の最後まで自宅療養で最後を迎えた。

亡くなる直前まで、意識はしっかりしていたのか、会話などある程度のコミュニケーションができた。子供が生まれたときには、いち早く顔を見せに行こうと、退院して二日後に自宅に伺った際には、はっきりと子供の顔を見、やせ細った身体で、寝たきりのなか、子供を抱え、可愛がってくれた。子供を抱いた際には、祈りを捧げてくれた。妻にとっても、曾孫の顔を祖父に見せることができたことは何よりの喜びだった。

生前、結婚の挨拶をしに伺った後、7月に銀座で行われた講演に伺う機会があった。結果的に、その銀座での講演は彼にとっての人生最後の講演となった。義祖父は、ギリギリの身体のなか、声もかすれ気味になりながらも、どうにか講演をやり遂げようと懸命に語っていた。また、その語りの内容も、6月に起きた関西の大地震の影響で、自身が長年勤めあげてきた高槻教会がある高槻を中心に、関西にいる人たちを思い、東日本大震災や熊本の震災といった、各地で被災された方々のことを思い、信者として、祈ることの大切さを説く内容であったことが、とても印象的であった。

キリスト教とそれまであまり縁のない人生、どちらかというと、仏教との関わりが多かった私にとって、キリスト教の使徒として、人生をキリスト教に捧げた義祖父とは、私にとってもっと対話をしたい相手であった。名前を調べ、著書を拝読するなか、その明瞭な語り口と、幅広い話題展開から自然と聖書へと導きながら聖書を解釈していくロジカルさとその美しさは、分野やジャンルは違うものの、文筆家や社会批評をする身において、とても参考になるだけでなく、その語りや文章のあり方に惹かれていき、いろいろと教えを請いたいと思うようになったが、その夢も叶わぬものとなった。

生前、義祖父が好きな言葉として「恐れは変わりて 祈りとなり 嘆きは変わりて 歌となりぬ」を挙げていたという。自宅にはこの言葉が書かれた色紙が掲げられており、亡くなったときや、その後に行われた送別会でもこの言葉が書かれたものが掲示されていた。

「恐れは変わりて 祈りとなり 嘆きは変わりて 歌となりぬ」。この言葉は聖歌498番の「歌いつつ歩まん」の一節である。この言葉は、エリザという教師によって作られたという。教職に励んでいたエリザは、ある日、ふとした事故がきっかけで脊髄を損傷し、寝たきりの生活となる。寝たきりとなり、思うように身体が動かせないエリザは、次第にふさぎがちとなり、次第に自身のそうした人生を悪いものだと思うようになっていった。

そんなエリザの病室に、毎日掃除に来る黒人のおばさんがた。掃除をしながら、感謝に溢れて賛美し、笑顔が絶えないおばさんにイライラするエリザ。「少し静かにしてくれないか。そっとしてほしいから」と言葉をかけるエリザに対し、「ごめんなさい、でも、悲しみも嘆きを賛美に変える力を、イエス様がくださるの」と、そのおばさんは話したという。その夜、エリザは黒人女性の言葉を思い出し、感涙し、自然と悔い改めお祈りを捧げ、そこから溢れたのがこの聖歌でありこの一節だという。

人生において、起きた出来事に逐一理由を考え、そこに暗い気持ちを抱え、なぜ自分ばかりがそうした事が起きるのかと嘆いたり、人生を案じ、生きることを恐れたりするのではなく、神様へと賛美と感謝を捧げることによって、神様のご加護があることを信じることが大切であると説く。まさに「歌いつつ歩まん この世の旅路を」である。

平成最後の年。折しも、平成天皇による年末の天皇誕生日に際したお言葉でも、人生の旅路を振り返り、皇后への感謝の言葉とともに、国民への深い愛情を、言葉を重ねられた。

誰もが、それぞれの人生の旅路を歩む。そこには、様々な困難や出来事が起きるかもしれない。そうした際に、私達はいかに祈りを捧げられるのだろうか。

誰かのためを祈り、誰かの祈りによって自分が生きている。旅路は、一人では歩んでいけない。人はそれぞれの人生を歩む。重なり合うそれぞれの人たちの人生の交差し、ともに同じ方向に歩む時間は、人にとって違うかもしれない。しかし、ともに同じ道を歩む限り、ともに支え合うことが大切である。

人が生きる上で支えになるもの。それはある種の「祈り」を通じ、誰かが見ている、誰かが支えていると信じる。震災など未曾有の出来事が起きたときこそ、そうした、人生に対して光明を見出すための支えとなる。自分が誰かの支えによって生きているように、誰かもまた自分の支えによって生きている。そうした相互の支え合いであり隣人愛こそ「祈り」の本質である。

子供が生まれる直前、まさにこうした「祈る」気持ちが自然と自分の内側から湧いていた。妻が分娩室に入り、そこからお産になるまでには紆余曲折あった。陣痛に耐えている妻を見つつも、どうにもできない自分は、できる限りのサポートをしながら時を待つしかなく、入院した日の夜を過ぎても出産に至らなかった日の夜や、帝王切開のために手術室に行った後の妻と子供を待つ間、祈りながら義祖父の聖書講義が書かれた書籍を読み続けたことを覚えている。

左が義祖父の書籍、右は病院で配布されていた新約聖書

2018年のクリスマスイブの夜には、これまでに何度か足を運び、義祖父の葬儀にも足を運んでくれた堀川牧師がいらっしゃる亀戸教会に夫婦と子供でキャンドル礼拝に行き祈りを捧げ、牧師の説教を聞き、賛美歌を歌いながら夜を過ごした。この一年間、何度と聖書や賛美歌を読んだり歌ったりする機会があり、「祈る」ことについて考えるようになった。

自分の人生の終着点はまだわからないが、これまでの人生、そしてこれからの人生について考える一つの節目として、義祖父との出会いは、2018年はとても大きなものになることは間違いない。だからこそ、ここで見聞きしたことの一つひとつ、それを受けて考えたことの一つひとつが、これからに少なからず影響を及ぼすことは間違いないだろう。

もう一つ、義祖父の好きな言葉にチャールズ・ディードリッヒの「Today is the first day of the rest of your life 」がある。彼の最後を見届けるに、今日という日を一日を懸命に生き、死ぬ間際まで、世の中と家族のことを考えた、まさに言葉通りの彼らしい人生だったと思う。私にとっても、この言葉は大切な言葉として常に考えていきたい。

こうした、身近な人を見送る経験をするたびに、自分の人生の残りについて考えてしまう。自分は何を残せるのだろうか。

心理学者の河合隼雄は「老いの入舞」と表現している。舞楽などで舞人が、舞い終わって舞台から降りて引き上げるときに、もう一度舞台に戻って名残を惜しむかのようにひと舞、舞ってから引き上げることを「入舞」といい、老境に入った能の名手が最後の素晴らしい芸を見せ、最後の一舞し、周囲を感動させて跡を去る、この美しさこそが老練な芸能として評価されるものだと言われている。

それを人生とたとえ、老いたときにどのような入舞をし、周囲に対して感動や影響を与えられるのか。老いの入舞は、自身の人生の仕舞い方を考え、それまで積み重ねてきたものが集約されたものが映し出される。

まだ30代の自分が人生の終わりについて考えるは早いかもしれない。しかし、老いを考えることは、つまり自分と社会との関係、自分より下の世代に対して、自分たちの世代がこれから何を構築し、何を残していくのかを考えることと同義である。

かつての宮大工は、2,3世代前の材木を使い、2,3世代後の世代のことを考え、木材を切り、乾燥させておくという。自分自身のみならず、上の世代から受け継ぐもの、下の世代に引き継ぐもの、ある種のバトンリレーをどう走っていくか。自身のあり方を見つめる一つのきっかけに、「老い」との向き合いは大切になってくるはずであるということを、ここ数年強く思うようになってきた。

私の好きな言葉の一つである井伏鱒二の「さよならだけが人生だ」ではないが、人生の旅路を考えながら、いまを懸命に生きていきたいものだ。